FC2ブログ
プロフィール

エージェントウルトラ

Author:エージェントウルトラ
気になるNEWSを紹介。

最新記事
最新コメント
カテゴリ

没後29年 松田優作・前妻と仲間が明かす秘話 「愛情を試すような人だった」

2018/11/07 07:30:24 | 芸能 | コメント:0件

201808030934255ee.jpeg


40歳の若さでこの世を去った俳優の松田優作さん。1989年(平成元年)11月6日に亡くなってから29年が経つ。テレビドラマ「太陽にほえろ」の“ジーパン刑事”役で人気を集め、殉職シーンの鬼気迫る演技は今もなお語り継がれている。アクションスターとしても一気にスターダムをのし上がり、俳優・高倉健さんと共演した米映画「ブラック・レイン」はハリウッドデビュー作となったが、遺作にもなった。AERAdot.では、前妻で作家の松田美智子さんにインタビュー。優作さんとの出会いや葛藤を語ってもらった。



*  *  *
「エキセントリックで、一緒にいると本当に色んなことが起きました。22、3歳の役者はみんなそういうものだったけれど、優作の場合は喧嘩とか身体を使ったエキセントリックさ。大変な時期ではありましたが、苦ではありませんでした」

 美智子さんは優作さんと過ごした時期をこう振り返る。

 1971年5月、優作さんと美智子さんは、俳優で料理研究家の金子信雄さんが主宰する劇団「マールイ」で出会った。ともに21歳。役者を目指す二人は互いに惹かれあい、まもなく同棲生活を始める。その後、1975年に結婚。出会いから11年間にわたって生活をともにした。

「冗談やダジャレを言うことが好きな人だったけれど、根が明るいわけではありません。青春時代にキャーキャー言われる経験がなかったし、寂しさを持った人でした」

 そう明かした美智子さん。優作さんとは「一生一緒にいる」感覚ではなかった、と。

「むしろ『やりたいことがあるから一緒にいる』側面のほうが強かったですね。ぶつかり合いの日々でした。優作は愛情を試すようなことをする人でもありました」と美智子さん。ビルの屋上でフェンスに腰掛け、隣に来るように促されたことがあるという。

「そこで渋っていると『信用していないのか』と。でも、物理的に怖いですから。信じる、信じないの話ではないでしょう。他にも、私が芝居の稽古に行こうとすると『行くな』と言うし、現場にもついてくる。気付けば現場に紛れているんです。自分の知らないところで何かが起きるのが嫌だったんでしょうね。彼のペースに乗せられていました」

 美智子さんは自著『越境者 松田優作』(新潮社)の中で、優作さんを「得体のしれない硬質なエネルギーを発散している」と評している。

「優作は『この世界(芸能界)で生き抜く』『役者しかない』という思いの深さは強かった。それに、表現することにおいて『俺はお前たちとは違う』という気持ちは絶対にあったと思います。これは何かをするときに大事なことです。(俳優に)なるべくしてなったと思っています」(美智子さん)

 1976年には映画「暴力教室」で主役を演じ、同年には美智子さんとの間に第一子となる長女が生まれた。1979年には主演を務めたテレビドラマ「探偵物語」が人気番組となり、名実ともに評価されるようになった。かつては無名だった一人の男が松田優作として名をとどろかせていく。美智子さんとの生活も順調かと思われたが、この『探偵物語』の共演をきっかけに現在の妻である松田美由紀さんと急接近し、恋仲となる。

■優作さんを襲った膀胱がん 最後の食事で抱いた「違和感」

 その後、1981年に優作さんと美智子さんは離婚し、別々の道を歩むことになる。しかし、その後も娘の誕生日などの節目には親子3人で食事することを欠かさず、愛情を注ぎ続けた。

 美智子さんが優作さんと最後に会ったのは1988年12月25日、長女の12歳の誕生日祝いだった。この日、美智子さんはある違和感を抱いていた。

「お酒も飲まないし、映画ではなく宗教の話が多かった。座禅がどうとか精神論を熱心に話すので、何かあったのかなと気になりました。翌年の冬、膀胱がんで亡くなったと聞いて、そうだったのかと」(美智子さん)

 優作さんの死後、美智子さんは当時の主治医に取材し、自著の中でこう記している。

<医師は優作と「心と心でつながっていた」「言葉を発しなくても通じ合っていた」と強調していたが、現実的な病状の説明は曖昧だったように思える。末期的症状を告げないことが、優作に希望をもたらしていたのだろうし、医師の判断が間違っていたとまでは言えないが、精神論がメインの会話だったとすれば、医師というよりは宗教家に近い。最後の入院で「そんなに悪くなってるなんて、どうしてあなたはいってくれなかったんだ」と話した優作の言葉は、医師への抗議の叫びではなかったのか>(『越境者 松田優作』(新潮社)から)

 優作さんは病の激しい痛みに耐えながら、写経をしたり仏像を彫ったりしていたという。その裏側には「心の師」と仰いだ人物の存在があった。美智子さんはこの人物にも取材を申し込み、FAXで返答を受けている。

<優作さんとは非常に短い期間でしたが、浮世の人間的な交流でなしに、禅、道の修行者として、最初から一貫して、一期一会で終って居ります!>(原文ママ)

<浮世で、病院に入院されている時、身体が具合悪く、非常に苦しまれている時、連絡があって、病院に伺った事がありますが、私が行くと不思議と身体の状態がよくなって、平静になられたのを記憶して居りますが、くわしい事は当時の病院の院長が御存知と思います!>

 病が進行し、精神論に頼るしかなかったのかもしれない。

「周りが言っても聞かなかったんだと思いますよ。(精神論に頼るのを)おかしいと思う人もいれば、『病は気から』とあるように、それが必ずしもダメだというわけではない。当時優作の周りにいた人の中で、拠り所になったのがその人たちだったのでしょう」(美智子さん)

■「中央林間のパチンコは楽しい」 仲間に見せた一面

 11月のある夜。年に1度だけささやかに催される「優作さんを偲ぶ会」が、今年も開かれていた。場所は東京・池袋の居酒屋。前出の松田美智子さんと、優作さんが立ち上げた演劇集団「F企画」の仲間たちが主催だ。一献傾けながら話は弾むが、年齢を重ねたメンバーたちの興味関心は健康ネタに移っていく……。すると、美智子さんが、

「黙ってると皆、健康の話ばっかりになっちゃうから、質問したほうがいいわよ」

 参加した記者にそう投げかける。場が一気になごむ。

 今年の会には、優作さんを「兄貴」と呼んでいたF企画の野瀬哲男さんや、同じく劇団で時を過ごした重松収さん、亀田順子さんらが集まった。毎年、優作さんの命日が近づくと数人で集まっているという。代表作の一つであるテレビドラマ「探偵物語」でも共演するなど、優作さんと出会ってから、40年以上の月日が流れていた。

「兄貴が中央林間(神奈川県)のパチンコに行ったとき、誰も自分に気付かないからめちゃくちゃ楽しかったって笑ってたんだよ。みんな台を見ているから、存分にパチンコを打てたって」

 とは野瀬さんの思い出話だ。顔が売れれば、街中で声をかけられることも増えた。娯楽すら自由に楽しめない生活で見せた優作さんの姿を想像すると、みな思わず笑みがこぼれる。

 話はさらにさかのぼる。

「ある役者のことを『あいつは気に入らないから、挨拶すんなよ』って兄貴が俺に言うんだよ。兄貴といるときにその人と鉢合わせて挨拶したら、『お前何やってんだ!』って。でも、俺はその人と共演してたし無視なんてできないよね」

 と、野瀬さん。そして、こう呟く。

「兄貴は本当にすごい役者になったけど、まみちゃん(美智子さんの愛称)といた激動の時間は青春で、色んな意味で一番大変だったと思う」

 夕方に始まった会は、気づけば時計の針が頂点を過ぎ、夜更けとなっていた。会話は尽きず、誰かが優作さんの思い出を話すたび、「兄貴らしい」という空気が流れる。40年前もこんな感じでしたか、と問いかけると「そうですね、こんな感じでした」と重松さんは微笑む。

 優作さんが亡くなって、来年で30年が経とうとしている。松田優作が駆け抜けた青春はまだ続いている。
















関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する